東洋蘭と洋蘭の定義

東洋蘭の定義

 「東洋蘭」の意味は二つの面からとらえることが重要です。一つは、東洋蘭として園芸界で扱われている蘭の範囲で、「東アジアに自生する比較的小型のシンビジューム属の蘭」とまとめることが出来ます。もう一面は、園芸の分野としてのとらえ方で、「比較的小型のシンビジュームを蘭鉢に植栽し、様式化された鑑賞規準に沿った美術的作品に仕立上げる古典園芸の一分野」とまとめることが出来ましょう。東洋蘭は盆栽と同様に鉢と一体の園芸である点を見落してはなりません。

洋蘭の定義

 「洋蘭」は、明治、大正期に欧米経由で日本に導入された一群の蘭に与えられた園芸上の分類です。大正末期ごろから使われるようになりました。当時、すでに江戸の園芸以来、中国原産のシンビジュームが「蘭」のゆるぎないイメージを独占していたので、新来の多様なラン科植物群には新しい別のくくりが必要だったのです。たとえ産地が熱帯アジアであっても全て西洋蘭(洋蘭)としてくくられたのです。洋蘭は基本的に温室を必要としたため、栽培者は華族、大富豪などに限定されていました。第二次大戦後に、東洋蘭を交配した耐寒性の洋蘭品種が次々に発表され、それが今日の洋蘭一般普及の出発点となりました。

東洋蘭という用語はいつ頃から?
 明治、大正期に活躍した洋蘭研究の先駆者のひとり、岡見義男氏は自著の中で、大正10年頃にラジオ放送で西洋蘭と共に使われたのが最初ではないかと証言しています。しかし、当時はすでに「蘭」がくくりとして充分に機能していたので、直ちに「東洋蘭」が一般化することはなかったのです。ところが、この用語は、昭和9年3月1日の満州国建国を契機として俄然クローズアップされることになりました。満州国の国章が蘭と定められたこともあり、今後は中国原産の蘭ばかりではなく、シュンランなど日本産のシンビジュームと共に「東洋蘭」と総称すべしとする運動が興ったのです。運動の中心は著名な彫刻家朝倉文夫等で、結成された「国香会」には600人余の愛蘭家が集り、会報「東洋蘭」は昭和42年まで発刊されています。会長朝倉はその巻頭言において「国香会は東洋の蘭一般の総合統一をめざし活躍すべきである」と述べています。昭和10年11月、国香会は満州国皇帝来朝を記念して、早稲田大学大隈講堂で「満州国皇帝陛下天覧記念東洋蘭柄物陳列大会」を開催しています。これが「東洋蘭」を冠した日本の蘭展の嚆矢とされています。
 なお、満州国国章は、蘭は蘭であってもキク科のフジバカマでした。しかし、時代の熱気は、植物学上のことなどどうでもよく、ひたすら両国のきずなとして蘭をたたえたのです。